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年末への道・二千一年十二月

ついにやっちゃったよ月イチ日記な一ヶ月というより一日分の記録。
葬式
8.12.2001
またばーちゃんが死んだ。
またってのもアレな表現だが一月に死んだのが母方で今回が父方。
これでうちの2世代前は全滅だ。父方の爺ちゃんは俺が生まれる12年も前にぽっくり逝ってたらしいし、母方も俺が小学校に上がる前に逝っている。
もう既に伯父伯母の中には年金生活者も少なくない。お年玉なんか暢気に貰ってた年月は過ぎて、俺も大人になっちゃったんだなあ、と改めて実感。
で、葬式なんぞ行ってきたわけで。神奈川は鎌倉の教会で、教会式の葬式。
教会っていうところの葬式は要するに「死者を拝む」のではなく、「神様に死者の魂を預ける」つまり我々の仲間であるところのこの人をお預けしますよく取り計らって下さい、という儀式なんだそうで、つまるところ正式には喪服を着てやる礼拝だったりする。
礼拝っつってもわからん人はいるかも知れんので(あんまりいないだろうけど)一応補足しておくと、礼拝って言うのは日曜日に信者が教会に集まってやる定例のアレのこと。祈ったり説教聞いたり賛美歌歌ったりする。
まあ、それで久々に教会で賛美歌なんか歌ってみたりしてきた。
これでも一応洗礼受けたプロテスタントの信徒。毎回礼拝で言う通り一遍の聖句である「主の祈り」なんかもまだそらで言える。というか、言えることを確認。
よくよく考えれば三百回近くも毎週毎週口にしていた言葉、言えて当然ではあったけど、文面を見る前に口が勝手にその言葉を繋いだのは少し嬉しかった。


葬式っていうのは死者への礼儀ではなく、生者の感傷の為の儀式、とはよく言われることだけど。
聖堂でぼーっと牧師さんの説教やばーちゃんの友達からの思い出話なんかを聞きながら、ここ数年のばーちゃんのことを全然知らなかったことを実感した。
ただ、語られるばーちゃんの思い出なんかは、なるほど俺の知っているばーちゃんそのものだった。当然ではあるけど。八十も過ぎてるばーちゃんが、会ってない数年の間に劇的に変化するなど有り得ないわけだし。
思い出せる最後の思い出の中では、叔父さんの家で喋ってる俺や父に、ゆっくりとした動きでお茶を淹れているばーちゃんの姿だ。その時にラーメンを作っては、手つきがあまりに遅いので「のびてるよ母さん」と叔父さんが困った顔をしたのも覚えている。申し訳なさそうなばーちゃんの出したラーメンは確かにのびていたが、俺はラーメンがのびたぐらいで食えないというような潔癖ではなかったので(単にあんまり食いものに拘らないタチなだけとも言う)、そのまま食った。普段自分で作るラーメンには卵くらいしか入れなかったので、その時食ったラーメンに乗せられた野菜の多さが少し嬉しかったのもよく覚えている。
参列者の口からつい最近の思い出まで語られるに至って、結局全然変わらなかったんだなあ、と安心する。そしてその俺の背後で、親戚やうちの母のすすり泣く声がする。
やっぱり俺は涙は出なかった。出なかったけど、確かに悲しいと思った。棺に入ったばーちゃんを花で埋めながら、やっと人が死んだんだという実感が出たのは、もうあとは棺を担いで運び出すだけ、という頃になってからだった。


葬式はこうやって、生きてる人間の中で死者を死者と確定させるために行う、区切り。
死んだばーちゃんが天国に行くのか地獄に行くのか土に帰るのかヴァルハラに行くのか、そんなことは問題ではないのだろう。ただ、死んだのだ、もうこの世にいないのだ、と確信しないと、喪失したことを認めきれない人がいる。そんな人たちを救うために、認識を切らせるのが「葬式」というものなのだろう。
そんなことをぼけっと考えながら、電車に乗った。黒いネクタイを引っこ抜いて、もう何年かは使うことがないだろうと思いながら、使わなくて済めばいいと願いながら、適当に丸めてポケットに突っ込んだ。

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